臨床医からみた電子カルテ−病歴の入力方式−
第1部 キーボードを用いた外来診療録全文電子化の試み

南陽市立総合病院耳鼻咽喉科  川合正和、伊藤吏

(注:本論は耳鼻咽喉科情報処理研究会ホームページ、トピックスに掲載された論文とおなじものです)


<目的>
 現在、山形県置賜地域には二つの市立総合病院、一つの町立病院、一つの診療所の四施設があるが、平成十二年度を目標にこれらの病院を統廃合する公立置賜病院構想が打ち出された。これは、新たに基幹病院を建設すると共に、従来の病院をサテライト施設として形を変えて存続させ、これらの施設の間を情報ネットワークで結び、一体の形で運用すると言うものである。情報ネットワークの形成に当たり診療録の電子化が必要となり、入力方法の検討がなされた。検討の結果、多岐にわたる情報が入力可能であること、迅速な入力が可能であること、後日のキーワードによる検索が可能であること、平成12年に実用段階にあることが必須条件と考えられ、キーボード入力によるワードプロセッサー方式(以下ワープロ方式)が最有力候補と考えられた。
 しかるに臨床の場で医師がワープロを打ちながら患者を診た場合、診療にどのような影響を及ぼすかに付いては未だ不明な点が多い。医師のキーボード入力が外来診療に及ぼす影響を探る目的で、パソコンを用い、キーボード入力による診療録記載のシュミレーションを行った。
<実験方法>
 Hardware はMebius note(Pentium120MHz) PC-A435、software は一太郎ver.8を用いた。
実験1.カルテ見本を用意し、ワープロと手書きで交互に5回づつ書き写しワープロと手書きの書き写しに要する時間を比較した
実験2.患者との会話を想定したシナリオ(表1)を作成し、シナリオに沿った入力に要する時間を測定した。実際には助手に患者役をやらせ、検者が医師の役をやり、お互いにシナリオを読み合い、患者役の話をもとにワープロ入力もしくは手書きでカルテを記載し終えるまでの時間を測定、これらを交互に5回ずつ測定した。

表1.入力実験用シナリオの一部抜粋
   医師 どうしましたか     
   患者 喉が痛いんです。
   医師 いつからですか。
   患者 三日前からです。(以下、続く)

実験3.ではワープロによるカルテ記載を用いて実際に外来診療を行った。外来午前の部の最後の外来患者(新患、再来含む)数人にモデルになってくれるよう依頼、ビデオ撮りする旨、学会で使用するかもしれない旨説明して行った。実験は97.11より98.1までの3ヶ月間、20人に対して行った。

<結果>
実験1.ワープロでカルテを書写
 カルテの見本を書写するのに要した時間は表2のごとくであり、検者の場合単純な書き写し作業ではワープロの方が手書きより早いことが分かった。

表2 カルテ書き写しに要した時間
   ワープロ入力  92±13sec
   紙に手書き   96± 5sec  (交互に各5回測定)

実験2.外来での患者との会話を想定したシナリオによる入力

 患者役の話を要約して書こうとすると、ワープロ操作が遅くなる上ミスが多くなり、ワープロ操作に集中すると話がまとめられなくなり、検者の場合ワープロ入力ではカルテを書き終えるまで手書きの倍以上の時間がかかることが分かった(表3)。

表3.シナリオに沿った入力所用時間
   ワープロ入力 210±28sec      
   紙に手書き 111±10sec (交互に各5回測定)

実験3. ワープロを記載を用いて外来診療を実施
(ビデオにて供覧)
(医師について)実験開始当初は医師は入力に追われ患者の方を見る余裕がなくなるばかりか、当初はパニックに陥ることも多かった。これは患者の話に入力するスピードが追いついていかず、高速のタイピングのために神経を集中すると話をまとめることが出来なくなり、結局話はまとめられない上、入力ミス、変化ミスのためロスタイムが発生し、さらに遅れるため強い焦りを生じそれがさらなるミスを誘発したためである。 しかし、三ヶ月実験を続けた結果、焦せることも少なくなり、入力ミスも減少し、高速でのタイピングが可能となり、表面的には平穏に外来を行うことが可能となった。

その反面医師の思考パターンにおいて好ましからざる変化が生じた。当初は患者の話を医学的に要約して記載(咽が痛いを咽頭痛と書くような書き方)していたが、後期になると患者の言ったことをそのまま書く棒書き(咽が痛いをのどがいたいとそのまま書く書き方)に変化した。棒書きするようになった結果、高速のタイピングが可能となったが、瞬間瞬間の医学的判断が欠落するため、思考は浅くなり医師と患者の会話としては底の浅いものに変化した。表面を取り繕うことはなんとか出来たためボロを出すには至らなかったが、同じことを二度聞いたり、肝心なことを聞き忘れたり臨床医としての技量の劣化が著明であった。通常医師は診療の流れを支配し、治療に役立つような方向へと患者を導くものと考えるが、入力に能力を取られ患者をコントロールすることは殆ど出来なかった。

また臨床医に存在する勘のようなもの、一例をあげると入力中は患者の嗄声に気が付かず、別れ際の患者の「ありがとうございました」の声に嗄声に気づいてもう一度見直した例など、臨床医としての総合的な勘が働かなくなった。

(患者について)医師が画面ばかり見ていて目線を合わせないため、不安げな硬い表情のまま診療を受ける患者が多々診られた。ワープロから離れた途端にニコッとした壮年男性、ワープロ診療を止めて紙のカルテで話を聞き直した途端に身を乗り出し話に生気が出てきた老婦、ワープロに黙々と向かう医師にあきれ顔で母親の方を見やる小学生等、望ましい変化と感じられたものはなかった。

 医師がワープロ入力に追われ余裕をなくした分、相対的に余裕を持つ患者も見られ、入力しやすいようゆっくり話してくれた患者もいた。ディスプレイ画面をのぞき込みカルテを見ながら話をした患者もおり、この患者からは内容の違い、漢字の変換ミスを指摘され同情までされた。

(スタッフについて) 医師が入力に手間取りに患者対応がおろそかになるため、看護スタッフが医師の代理として患者を仕切るような動きが見られました。日常の医師の力量を知る看護婦からは、明らかに診療レベルが落ちてると言われた。

<考察>
 実験1で示したごとく検者は単純な書写であれば手書きよりも高速でワープロ入力が可能であったにもかかわらず、話をまとめながら入力する場合には極端に入力が遅くなった。これはワープロでは変換操作を要求されるため、変換の課程で思考が寸断されるためである。おおざっぱな言い方を許していただけば、思考は大脳の仕事であり、手を動かすのは小脳の仕事である。手書きではたとえ字を書いていたとしても思考を続けることが出来るが、ワープロでは変換のたびに思考を寸断され思考がまとまらなくなると考えられる。どんなに正確に入力したとしても「耳鼻科外来」と「耳鼻科が依頼」を区別して変換するには、小脳ではなく大脳の働きが必要でり、思考は寸断される。

慣れに従い、患者の話を棒書きで書き高速入力が可能となった現象を変化を説明する仮説として次のように考えている。作業が遅い場合、パソコンであればCPUを高速化するか、メモリーを増設するか、アプリケーションソフトを軽いものに換えることが有効である。医師の頭はパソコンと違いCPUを高速化することも、メモリーを増やすことも容易ではないが、ソフトを軽くすることは可能と考えられる。患者の話に付いていくためにワープロの高速入力を行うことが要求されたため、医師の頭の中でもっとも重いソフトと思われる医学的思考を外してソフトの軽量化を図り、それにより生じた余力でワープロ操作の高速化が図ったものと考えられる。本実験ではワープロ記載で診察した後、もう一度紙のカルテで診察しなおすというアフターケアを行っており、トラブルは一件も起こっていないが、アフターケアなしでは小トラブルが起こってもおかしくないケースが3,4件はあったと考えている

 これらの実験結果をもとにキーボードにより診療録全文を電子化した診療を予想した場合、医師一人あたり時間あたりの患者数の減少、患者一人一回受診あたりのカルテ記載情報量の減少、医師の思考力低下による医療レベルの浅在化、医師と患者の関係の変化などが予想される。これらの望ましからざる変化を防ぐためには、診療録の部分的電子化にとどめることが望ましいと考えられる。